【研究成果】TUCAN実験が超冷中性子ビームの生成に成功しました
2025年6月13日、カナダ・バンクーバーにある加速器研究施設TRIUMFにて、世界最高レベルの極低温技術を用いた実験により、超冷中性子(ultra-cold neutrons; UCN)の生成に成功しました。この研究は、宇宙がなぜ物質で構成されているのかという根源的な問いの解明につながるものであり、名古屋大学素粒子宇宙起源研究所(KMI)の北口雅暁准教授のグループも参加しています。
本研究は、TRIUMFを中心とした国際共同研究グループ「TUCAN(TRIUMF Ultra Cold Advanced Neutron source)」によって行われました。超冷中性子(UCN)の生成数は、これまでの記録を大きく更新し、1ビームパルスあたり94万個に到達。今後、冷却段階をさらに加えることで、最大5700万個まで増加させることが期待されています。
この実験の目標は、中性子の電気双極子モーメント(EDM)をこれまでにない高感度で測定することです。中性子EDM(nEDM)の存在は、過去50年におよぶ数多くの実験にもかかわらず、いまだ確認されていません。もしその存在が明らかになれば、「なぜ私たちの宇宙には反物質がほとんど存在せず、物質だけが残ったのか」という宇宙の根源的な謎の解明に直結する可能性があり、国際的にも大きく注目を集めています。
TRIUMFでは、陽子ビームを用いてタングステン標的から中性子を生成し、三段階の冷却プロセス(重水、液体重水素、超流動ヘリウム)を通じて中性子を約0.003ケルビンまで冷却。秒速1万km以上で飛んでいた中性子を、秒速5m以下の超低速まで減速することで、観測する時間を大幅に延ばすことができ、高感度な測定が可能となります。
現在の装置では、液体重水素による中間冷却段階が省略されていますが、今後この工程を追加することで、世界最高強度のUCN生成が現実のものとなります。研究チームは、2027年にnEDMの本格的なデータ取得を開始することを目指して準備を進めています。
名古屋大学の貢献
名古屋大学からは素粒子物性研究室(Φ研)が本研究に参加しており、超冷中性子の生成に必要な冷却装置の運転や、生成した超冷中性子を実験装置に導くための配管の開発、nEDM測定の要である中性子のスピン(自転)の向きを測定する装置の開発など、多岐にわたり貢献しています。
研究者コメント(北口雅暁さん)
超冷中性子の生成成功に、とても興奮しています。名古屋大学の学生も多数参加しており、世界中の仲間と共に喜んでいます。今回の成果は、宇宙の進化と素粒子の謎に迫る物理実験に向けての大きな前進です。今後は世界最高強度のUCN生成の達成と、世界最高感度のEDM探索に向けて、さらに研究を進めていきます。ぜひご注目ください。
用語解説
TRIUMF
カナダ・バンクーバーにある、同国最大の粒子加速器研究施設です。サイクロトロン加速器で生成した陽子ビームを用いて、基礎物理学、核物理学、医療応用、材料科学など幅広い分野の研究が行われています。とくに超冷中性子(UCN)の生成や、中性子の電気双極子モーメント(nEDM)の高精度測定において、世界をリードする研究成果をあげています。
超冷中性子(Ultra Cold Neutron; UCN)
極めて低い運動エネルギー(およそ100ナノ電子ボルト、温度に換算して約0.001ケルビン)まで冷却された中性子。速度が非常に遅いため、重力や物質の壁によって閉じ込めることができ、数百秒以上にわたり容器内に蓄積することができます。この特性により、中性子の寿命や電気双極子モーメントなど、基礎物理定数を高精度で測定する実験に利用されています。
中性子EDM(Neutron Electric Dipole Moment; nEDM)
中性子は原子核を構成する粒子のひとつです。電気的にプラスマイナスゼロの電荷を持たない「中性」な粒子ですが、その内部構造にはわずかな電気的な偏りが存在する可能性があります。この偏りを「電気双極子モーメント」(Electric Dipole Moment;EDM)と呼びます。もし中性子EDMが存在すれば、時間反転対称性の破れを意味し、標準理論を超える新しい物理の兆候となります。とくに、物質と反物質の不均衡の起源を探るうえで、極めて重要な観測対象です。
時間反転対称性
物理法則の基本的な対称性のひとつで、時間の流れを逆向きにしても同じ物理法則が成り立つという性質です。たとえば、ある粒子の運動が、時間を反転させた場合にも同じ法則で説明できるなら、その現象は時間反転対称性を持つとされます。もし、この対称性が破れていることが確認されれば、標準理論を超える新しい物理の存在を示唆する重要な手がかりとなります。