第9回:中性子寿命の精密測定(2014年12月)
『素粒子実験の三本柱は、高エネルギー加速器実験、天体観測、それともう1つ、精密測定です。』
KMI現象解析研究部門宇宙素粒子起源グループの北口雅暁准教授にお話をうかがいました。
『宇宙の歴史には、その後の進化を決定づける幾つかのトピックがあります。例えば、インフレーションによって宇宙は加速膨張し、物質と反物質の間の対称性がやぶれ、宇宙は通常の物質で満たされます。その後陽子や中性子が作られ、さらにそれらが集まってヘリウムやリチウムなどの原子核が合成されます。さらに時間が経過して、電子が原子核に捕まって原子になり、星が作られます。現在の宇宙の姿はこれらの出来事の中での粒子の振る舞いで決まってきたはずで、それを明らかにするのが素粒子実験です。実は大昔に起こったこれらの出来事の名残が、今ある素粒子の性質の中にちょっとだけ残っています。精密測定ではその名残を捕らえ、宇宙初期や素粒子の統一模型に実験的に迫まります。私たちは現在、中性子の寿命の精密測定実験を行っています。』
ー 中性子の寿命はどのくらいなんですか? 原子核に束縛されていない、自由な中性子の寿命は15分くらいです。陽子、電子、反電子ニュートリノにベータ崩壊します。(図1) ー 寿命というのは? 中性子ができてから崩壊するまでの時間ですか? 素粒子は、いつできたかには関係なく、単位時間あたりにある割合で崩壊していきます。粒子の数が1/eに減るような時間を、寿命と呼びます(e:自然対数の底、約2.72)。例えば、今、ある粒子を100個持ってきて、1時間後1/eの37個残っていたとすると、「この粒子の寿命は1時間」と言います。最初にあった100個のうちどれがいつ崩壊したかは関係ありません。 |
図1:中性子のベータ崩壊。陽子と電子、
反電子ニュートリノに崩壊する。
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では、中性子の寿命がなぜ重要なのか。まずは宇宙の歴史をみてみましょう。
ビッグバンの後、陽子と中性子は同じ数作られました。高温高圧の宇宙では陽子と中性子は互いに行き来でき、バランスが取れていたのです。ところが時間が経って宇宙が膨張し、冷えていく中、寿命が15分程度の中性子はどんどん減っていきます。一方陽子はほとんど崩壊せず、バランスが崩れ始めます。やがて陽子と中性子が出会って結合し、原子核が合成されます。出会えなければ陽子1つのまま、つまり水素です。うまく結合する確率はとても小さいので、現在の宇宙に存在する元素はほとんど水素と、次に簡単なヘリウムです。最初の宇宙の物質の密度がわかれば、陽子と中性子が出会って結合する確率がわかり、どんな原子核がどの程度合成されるかは比較的簡単に計算できます。これが標準ビッグバン元素合成モデルです。(図2)
さて、例えばヘリウムを合成するには陽子2つと中性子2つが必要ですから、「元素合成が始まったときに中性子がどれだけ残っているか」が、「その後どれだけヘリウムを合成できるか」を決めてしまいます。ある時間経って中性子がどれだけ残るかは寿命で決まるのでした。ですから、中性子の寿命が現在の宇宙の元素の比率を決めている、ということになります。
ところで、宇宙の物質の密度は人工衛星(WMAP、Planck)の観測で求められています。また宇宙には、初期宇宙の状態を保っている天体というのがあって、その観測から元素の比率を求めることができます。この2つは「標準ビッグバン元素合成モデル」で結びついているはずですが、現在知られている中性子寿命の値では、うまく説明できません。つまり、素粒子の基本的な性質であるはずの中性子寿命を用いて、現在に至る宇宙の進化を整合性よく理解できないでいるのです。
さらに、中性子寿命は現在の素粒子標準理論とも関連があります。素粒子標準理論の中でクォークの性質を表す「小林益川行列」の値(行列の1つの要素)を、中性子寿命を用いて導くことができるのですが、中性子寿命の直接測定以外の実験から得られた値と整合しない場合があるのです。
何がおかしいのでしょう? 実は中性子の寿命を実験で求めるのはとても難しく、現在でも精度が良くありません。中性子の寿命の測定方法は大きく分けて2種類あります。(図3)
(1)中性子を容器に貯め、時間が経った後に残った中性子を数える「超冷中性子蓄積実験」
秒速5メートル以下の極めて低エネルギーの中性子は、表面をピカピカに磨いた容器に貯めることができます。例えば蓋を閉めてから10秒後に生き残っている中性子を数えれば、10秒間にどれだけの中性子が崩壊したかわかり、寿命が求められます。
(2)飛んでいる間に崩壊する中性子から出てくる粒子を数える「冷中性子ビーム実験」
ビーム状の中性子がある領域を通過する時間内に崩壊する数を、崩壊によって飛び出してきた粒子(陽子や電子)を検出して数えます。中性子の入射量がわかれば、その時間内に崩壊する割合、つまり寿命がわかります。
この2つの方法で測定した中性子の寿命の値は、およそ8秒も食い違っています。(グラフ1)これはデータから寿命を導く際の、補正の方法や不確かさの見積もり方が異なっているからだと思われます。(1)の方法では、ガラス瓶から漏れてしまう中性子の量を見積もるのが難しい。いくらきれいに磨いても表面に小さな凹凸が残り、そこから中性子が出て行ったり、あるいは表面に水分が付着していると、水分中の水素に中性子が蹴飛ばされたりして、中性子のエネルギーが大きくなりガラスをすり抜けてしまいます。(2)の方法では、入射した中性子の数の測定が難しいです。中性子は核反応によって荷電粒子に変換しないと検出できません。崩壊前の中性子の数を数えたいのに、数えると中性子が消えてしまう。入れた中性子の数が正確にはわからなくなってしまいます。
そこで私たちは、この2つの方法の困難な点を排除した新しい方法で中性子の寿命の精密測定を行なっています。茨城県東海村にあるJ-PARC(Japan Proton Accelerator Research Complex:ジェイパーク)には、世界最高強度の中性子を発生させる施設があります。私たちはJ-PARCから供給される中性子ビームを使って実験しています。(図4)名古屋大学、東京大学、京都大学、大阪大学、九州大学、高エネルギー加速器研究所などとの共同研究です。
(下)基礎物理のためのビームライン「中性子光学基礎物理実験装置」冷中性子ビームが右から青矢印のように飛んでくる。
ー 中性子を発生させるのは難しいのですか?
中性子は原子核に束縛されているので、核反応を用いた方法でしか取り出せません。J-PARCでは水銀原子核に高エネルギー(3ギガ電子ボルト)の陽子をあててバラバラに壊し(核破砕反応)、中性子を取り出します。出て来る中性子は原子核に束縛されていたエネルギーが解放されるので、高いエネルギー(およそメガ電子ボルト)を持っていて、私たちの実験に向いていません。速い中性子は実験室をあっというまに通過してしまい、その間にはほとんど崩壊しないからです。ですから、減速して使います。冷えた液体水素を通過する間に水素と衝突を繰り返して運動エネルギーを渡し、中性子はおよそ2000m/sまで減速されます。こうして取り出した中性子ビームを、さらに小さな細切れ(検出器到着時点で長さ40cmくらい)にします。この中性子の塊は検出器の容器のよりも小さく、すっぽり収まっている状態を作ることができます。つまり壁と接していないので、超冷中性子蓄積実験のような不確実さを回避できます。
ー 中性子の塊はどうやって作るのですか?
中性子はスピンを持っていて、小さな棒磁石のようなものです。鉄のように磁石の性質のある壁に入射する時、鉄内部の磁場と中性子の磁石の向きが同じなら中性子は高いポテンシャルエネルギーを感じて反射され、逆向きならポテンシャルは低くなって中性子は鉄の壁を通り抜けます。低速の中性子は比較的簡単にスピンを揃えたりひっくり返したり(反転)できます。スピンを揃えた中性子を、スピンを反転する装置と鉄の壁を通過させます。そして、欲しい長さ分だけ壁を通り抜けるようにビームの一部のスピンを反転させると、小さな塊だけを検出器に導くことができます。(図5)
この塊は1ミリ秒(1/1000秒)くらい検出器にすっぽり収まっています。中性子が崩壊すると電子が出てくるので、出て来た電子を検出すれば崩壊した中性子の数が数えられます。(図6)
あとは、もともと検出器に収まっていた中性子の数がわかれば、この1ミリ秒の間に崩壊する割合、つまり寿命が求まります。
ー 中性子がどれだけ入ったか、正確にわかるのですか?
難しいです。これが実験のキモです。先ほども言いましたが、中性子は核反応を用いなければ測定できません。そこで私たちの実験では、検出器にヘリウム3(ヘリウムの同位体)のガスをごく薄く入れておきます。ヘリウム3は中性子を吸収して荷電粒子を出すので、それを検出します。入った中性子のうち反応する割合はヘリウム3の密度で決まります。検出器内に混ぜたヘリウム3の密度は分かっているので、入射粒子の数を求めることができます。先ほどお話した実験(2)の方法では入れた中性子の数と崩壊した中性子の数を別の検出器で計るので、検出器同士の校正が難しいのですが、私たちの方法では、入射中性子の数と崩壊した中性子の数が同時に1つの検出器で測定できます。
現在までに、寿命をおよそ10秒の精度で測定するのに必要な量のデータを取得していて、解析を進めています。目標は1秒ですが、入射する中性子を小さな塊にしているので現状のままではデータ量が足りません。ビームの輸送効率を20倍にする改造を計画しており、精度を1秒にまで向上させていきます。
中性子は電気的に中性なので電磁場からの影響を受けにくいので、精密測定に向いています。また質量が大きいので、素粒子間に働く重力の効果を探るのにも適しています。私たちは寿命測定の他にも、CP対称性の破れや未知の短距離相互作用を探す実験など、中性子を用いた精密測定によって素粒子標準理論を超える物理を探索する研究を推進しています。
参考文献
[1] 中性子寿命とビッグバン元素合成について
G.J.Mathews, T.Kajino, T.Shima, Phys.Rev. D71 (2005) 021302®.
[2] 中性子寿命の平均値について
J.Beringer et al., Phys. Rev. D86 (2012) 010001.
[3] 冷中性子ビームを用いた寿命測定実験について
A.T.Yue et al., Phys. Rev. Lett. 111 (2013) 222501.
[4] 超冷中性子蓄積を用いた寿命測定実験について
S.S.Arzumanov et al., JETP Letters, 95 (2012) 248.
[5] J-PARCの中性子光学基礎物理ビームラインについて
Y.Arimoto et al., Prog. Theor. Exp. Phys. (2012) 02B007.
K.Mishima et al., Nucl. Instrum. Methods Phys. Res. A600 (2009) 342.
[6] スピンフリップチョッパーについて
K.Taketani et al., Nucl. Instrum. Methods Phys. Res. A634 (2011) 134.
[7] タイムプロジェクションチェンバーについて
H.Otono, dissertation, University of Tokyo (2012).
<!–専門家向けセミナーサイトにスライドがあります。–>
(文:素粒子宇宙起源研究所広報室 木村久美子)