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物理学者を目指す
生まれは愛知県の葉栗郡木曽川町、現在の一宮市です。2歳の時に木曽川を挟んだ対岸、岐阜県の笠松町に移り住みましたので、記憶の原風景といえば笠松になります。実家は今もそこにあります。
物理に興味をもったのは高校に入ってからです。きっかけは天文部での活動でした。そこで天体のことを学ぶうちに、相対性理論などの基礎物理学に触れる機会があり、そこから物理学、特に素粒子物理学をやりたいという思いが強くなっていきました。物理学を本格的に学べる理学部があり、かつ実家から通える範囲で一番近い大学となると、自然と名古屋大学を目指すことになりました。名古屋大学に入学した時点で、私は物理学の研究者になることを目標としました。
Bファクトリーとの出合い
大学に入学し、4年生で研究室を選ぶ時期が来ました。素粒子物理をやりたいと思っていた私は、基本粒子研究室(F研)に入ることになるのですが、これは私が選んだというよりは、F研の「網にかかった」と言ったほうが正しいかもしれません。当時のF研は、学部の1、2年生の頃からセミナーなどを通じて、素粒子物理を志望していそうな学生を勧誘していました。私もまんまとその網にかかったわけです。
F研に入った当時、研究室では原子核乾板の読み出し装置の開発などが始まっていましたが、私が興味を持ったのは、世界的に議論が始まりつつあったBファクトリーでした。Bファクトリーは、B中間子と呼ばれるハドロンを大量につくり出す高エネルギー加速器の施設名であり実験名です。当時、プレプリント(研究速報)を読み漁っていた私は、B中間子の性質を調べる実験によって、物質と反物質の対称性の破れ、CP対称性の破れが測定できるというアイデアに出合いました。当時、F研では半導体検出器の開発を行っていました。Bファクトリーには、崩壊点を精密に測定するための高精度の検出器が不可欠であり、F研が持っている半導体技術を使えば、Bファクトリーに貢献できるのではないかと考えたのです。自分の得意な装置開発のスキルを生かして素粒子物理学の大きな謎に挑む。この二つが重なったことが、その後の私の研究人生を決定づけました。
後に始まったBファクトリーには、高エネルギー加速器研究機構(KEK)におけるKEKB加速器によるBelle実験とスタンフォード線形加速器センター(SLAC)におけるPEP-II加速器によるBaBar実験の二つがありました。この後、私はこの二つの研究機関で研究を進めていくことになります。
技を磨いたポスドク時代
博士課程を満了した私は1991年にアメリカへ渡ります。ポスドクの私が向かったのはコーネル大学で行われていたCLEO実験のグループでした。Bファクトリー前夜、B中間子研究の最先端がCLEO実験でした。所属はカリフォルニア大学サンタバーバラ校(UCSB)でしたが、実際にはコーネル大学のあるニューヨーク州イサカに住んで実験をしていました。それまでCLEO実験では半導体検出器を使用していませんでしたが、将来的にBファクトリーに進出するために半導体検出器が必要となります。私は半導体検出器の開発の実働部隊として雇用されました。CLEO実験では、半導体検出器やその解析ソフトウェアの開発を進めると同時に、チャーム中間子の一つであるDsのさまざまな崩壊分岐比を測定する解析をしました。
Bファクトリーでの仕事
1996年、私は日本に戻ることにしました。日本でもいよいよKEKがBelle実験を始めることになり、東京大学が半導体検出器の開発を主導できる人間を探していました。アメリカではSLACがBaBar実験を始めようとしていました。日本に戻ることを決めた理由は、まだ半導体検出器開発の経験者が日本には少なく、自分が活躍できる場が多いだろうと考えたからです。しかし日本に戻ると、Bファクトリーの崩壊点検出器の設計は終わっており、半導体検出器や信号処理回路の開発担当者も決まっていました。そのため私はまだ担当者のいなかった半導体検出器の試験装置の開発を担当することになりました。
半導体検出器の試験装置には、信号処理回路にIDE社が開発したVA1という最新かつ高性能の集積回路を採用しました。試験装置の製作は順調に進みましたが、その一方で半導体検出器とその信号処理回路の開発は大幅に遅れていました。そのため既存の半導体検出器と信号処理回路を用いて崩壊点検出器を再設計することになりました。信号処理回路には、私が担当した半導体検出器試験装置に採用していたVA1を採用することになったため、私は半導体検出器と信号処理回路を組み合わせた検出器モジュールとその試験装置の開発、そして検出器レイアウトの全体設計を担当することになりました。崩壊点検出器の較正や立ち上げの場面で、私の出番は多く、結果、崩壊点検出器の責任者に任命されました。
そして2001年、生成したB中間子と反B中間子が短時間のうちに崩壊する様子のわずかな差を観測することに成功し、小林・益川理論の予言する「CP対称性の破れ」を証明することができました。これが小林先生と益川先生のノーベル賞受賞の決め手となりました。これにより私は、Bファクトリーで自分がつくった半導体検出器が狙った通りの物理現象を観測するという学生時代から取り組んできた大きな目標を達成することができました。

Bファクトリーで開発した崩壊点検出器。現在は名古屋大学の2008ノーベル賞展示室に展示されている
ガンマ線という新たなターゲット
Bファクトリーでの目標を達成した私は、「次は何をしようか」と考え始めました。同じことを続けていても、これ以上の大きなインパクトを出すのは容易ではありません。そこで注目したのが、ガンマ線による宇宙観測でした。当時、私は次のターゲットとして、超対称性粒子の探索が有望だと考えていました。超対称性粒子は電子や陽子といった標準模型の素粒子一つひとつに対応して存在するとされる未発見の「ペア粒子」で、暗黒物質(ダークマター)の候補ともされていました。通常ならば超対称性粒子は巨大な加速器で探すのが王道ですが、加速器実験は数千人の研究者が関わる巨大プロジェクトです。数千分の一の研究者になるよりは、もっと小規模でも自分の技術がキーとなる実験で勝負したいと私は考えました。宇宙を飛び交うガンマ線を観測すれば、暗黒物質が対消滅する際の信号を捉えられる可能性があります。宇宙には加速器を超えるエネルギー現象が満ちあふれています。衛星によるガンマ線観測は、ある意味で「宇宙を加速器として利用する」素粒子実験でもありました。
2001年、私は再びアメリカへ渡り、SLACに移籍しました。当時、GLASTプロジェクトと呼ばれていたガンマ線宇宙望遠鏡フェルミ衛星の開発に参加するためでした。フェルミ衛星でも、私の専門である半導体検出器の技術が必要とされていました。ここでもまた、新しい物理テーマであるガンマ線と、自分の得意技である半導体検出器がうまく合致したのです。SLACでは、半導体検出器や飛跡測定装置の試験や運用の責任者を務めました。フェルミ衛星は打ち上げ後、期待以上の成果を上げました。特に、宇宙線の起源が超新星残骸にあることを証明できたのは大きな成果でした。

SLACの釜江常好教授が退職する際に開かれた日本人関係者の送別会(2011年)
名古屋大学への帰還
2010年、私は名古屋大学に戻ってきます。理由はアメリカでの研究環境が変わってきたことでした。当時、私はSLACでフェルミ衛星の運用を続けながら、次世代の地上ガンマ線観測プロジェクトであるチェレンコフ望遠鏡アレイ(CTA)天文台の準備を進めていました。CTA天文台は、地上に多数の望遠鏡を建設し、宇宙から降り注ぐガンマ線を観測する巨大な国際プロジェクトです。しかし、SLACを管轄するアメリカエネルギー省(DOE)は、ガンマ線観測から地下での暗黒物質探索実験に研究の重点を移すという方針を示しました。つまりDOEはCTA天文台をサポートしないということになります。フェルミ衛星はいずれ寿命が来ます。次のプロジェクトであるCTA天文台がSLACでできないならばSLACにいてもしょうがありません。そんな時、名古屋大学の宇宙線研究室(CR研)で教授の公募があることを知りました。私はSLACから日本、それも母校である名古屋大学に戻ることを決めました。
ASTRO-Hの悲劇と希望
名古屋大学に戻ってからの私の大きな仕事の一つは、日本のX線天文衛星ASTRO-Hに搭載する軟ガンマ線検出器の開発でした。これは私がまだSLACにいた頃から半導体検出器やその信号処理回路の開発を主導したプロジェクトでした。フェルミ衛星よりも低いエネルギー領域である軟ガンマ線を観測し、宇宙の謎に迫ろうという野心的な計画でした。私は軟ガンマ線検出器の開発責任者として、9年以上の歳月をかけその開発を進めてきました。
2016年、ついにASTRO-Hは打ち上げられました。しかし、悲劇が起きました。衛星の運用ミスにより、打ち上げからわずか1カ月あまりで衛星が分解し、通信が途絶えてしまったのです。9年かけてつくり上げ、ようやく宇宙へ送り出した装置が、一瞬にして失われてしまいました。その喪失感は言葉にできないほど大きなものでした。ただ、不幸中の幸いと言うべきか、衛星が壊れる直前のわずか5000秒間だけ、私たちが開発した検出器はデータを取得していました。たった5000秒です。しかし、そのデータは極めて質の高いものでした。私たちはそのわずかなデータの解析に全力を注ぎました。結果として、私たちがつくった装置は、時間当たりの精度で見れば驚異的な性能を発揮していたことが証明されました。もしあのまま観測が続いていれば、どれほどの成果が出ただろうかという悔しさはあります。しかし、研究者として「自分のつくったものは間違いではなかった」と実証できたことは、次へと進むための大きな救いとなりました。
CTAプロジェクトの困難
ASTRO-Hのプロジェクトは志半ばで終わってしまいましたが、私にはもう一つの柱がありました。それがCTA天文台でした。しかし、このCTA天文台も一筋縄ではいきませんでした。欧州原子核研究機構(CERN)や欧州南天天文台(ESO)のような研究母体が最初からあるわけではなく、自分たちでお金を集め、組織そのものをつくり上げるところから始めなければならなかったからです。実際には運営組織を設立するだけで何年もかかりました。ようやく組織ができ、チリとスペインで望遠鏡の建設が本格化したのはごく最近のことです。
当初の予定では2018年頃には観測が始まっているはずでした。それが10年近く遅れています。名古屋大学にいる間に、つまり私の定年までにCTA天文台がフル稼働することはなさそうです。それでも、モチベーションが下がっているわけではありません。今は、学生たちとCTA天文台の性能をさらに拡張できる新しい観測手法の研究をしています。これがうまくいけば、今まで見えなかったものが見えるようになると考えています。

パリ天文台で行われたCTA天文台小口径望遠鏡の試作機除幕式典(2015年12月)
私の研究者スタイル
振り返ってみれば、私は素粒子物理学からスタートし、加速器実験を経て、現在は宇宙ガンマ線観測に取り組んでいます。一見すると研究分野を移したように見えるかもしれませんが、私の中では一貫したものがあります。それは「自分の得意な技術を生かして、その時々で最も面白い物理に挑む」ということです。実験の舞台が加速器から宇宙に変わっても、素粒子物理学者である私の視点や手法は変わりません。この手法は原子核乾板技術を核に多様な加速器実験、宇宙観測を推進するF研の手法でもあります。私は意図してF研の視点や手法をフォローしたわけではなく、自然に身についたものだと思います。
名古屋大学での生活もあと3年となりました。CTA天文台の完成を見届けることは現役中には難しいかもしれません。しかし退職してからも科学研究費さえ獲得できれば研究を続けることができます。まだまだやりたいこと、試したいことのアイデアは尽きません。

名古屋大学における一般向け講演会(2018年8月)
- サムネイル写真説明
- 米国アリゾナ州のウィップル天文台にあるCTA天文台中口径望遠鏡試作機の視察(2017年1月)


